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2020年08月02日更新
2020年8月2日主日礼拝
前 奏
招 詞 詩編100:1~3
頌 栄 542 (夕拝:38)
主 の 祈
聖 書 コリントの信徒への手紙二1章12~14節
(新約p325)
牧会祈祷
讃 美 歌 74
説 教 「わたしたちの誇り」
祈 祷 内田 知牧師
讃 美 歌 346
献 金
頌 栄 543
祝 祷
後 奏
報 告
説教「私たちの誇り」
ここには「誇り」という言葉が何度も出てきます。実は「誇り」ということも、この手紙の一つの特徴です。
「誇ること」は決して悪いことではありません。むしろ誇りを失い、必要以上に卑下するのは健全な姿ではなく、逆に始末に負えないこともあります。問題は「誇ること」ではなく、「何を誇るか」です。
当時、知識や知恵を誇りとする人たちが現れて、コリントの教会をかき回していました。13節からは、パウロがすでに書いた手紙のことをも、「パウロの教えは間違っている、自分たちの教えこそ正しい」と非難していたことが見て取れます。しかし彼らは「純真さと誠実さ」(12節)から、そういうことをしていたのではありません。彼らはこの手紙の中で「自己推薦する者」と呼ばれています(10:12)。どうやら知恵や知識を語って、「人々の心をとらえたかった」、そして「パウロの立場を不利にし、自分たちが人気を得たかった」のです。「自己推薦する者たち」は知恵や知識を誇りとし、結局は、「自分」を誇りたかったのです。彼らはパウロのように、神さまの恵みにとらえられて、「救いの福音を述べ伝えたい」という「湧き上がる情熱」に押し出されたのではなく、「人間的な思い、上辺だけを誇る思い、自分を誇る思い」から行動していました。しかしパウロは「わたしは自分を誇るためにやってきたのではない。ただただ、神さまの恵みにとらえられてこれまで行動してきたことが我が誇りだ。わたしの誇りは、自分ではなくて神さまの恵みだ」と言うのです。
わたしたちの誇りはなんでしょうか。「拠り所」といってもいいかもしれません。それは、最後は神の恵みです。なぜならこの世の誇りは打ち砕かれるのです。自分自身なんて、脆いものなんです。パウロもそうでした。彼はかつてエリ-ト中のエリートで、誰もが一目置く存在でした。しかしそんな彼が「一瞬にして」打ち砕かれ、自分では歩くことさえ出来なくなり、手を引いてもらってダマスコの町に入っていくのです(使徒9章)。これまでの経歴も、何もかもすべて失い、丸裸にされたのです。...こういうことは、決して珍しいことではありません。
わたしたちは、誇るべきものを間違ってはなりません。わたしたちは弱く、脆く、はかないのです。しかしそんなわたしたちを最後まで支えるのが神の恵みなのです。「誇る必要があるのならば、自分の弱さを誇」(11:30)りましょう。なぜなら「神の恵みは弱さの中でこそ発揮される」(12:9)からです。