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2022年01月30日更新
2022年2月6日 主日礼拝
前 奏
招 詞 詩編95:1~3
頌 栄 539(奏楽のみ) (夕拝41)
主 の 祈
信仰告白
聖 書 ヨハネによる福音書 4章31~42節 (新約p170)
牧会祈祷
讃 美 歌 1 (奏楽のみ)
説 教 「共に喜ぶために」
祈 祷 内田 知 牧師
讃 美 歌 503(奏楽のみ)
献 金
頌 栄 541(奏楽のみ)
祝 祷
後 奏
説教「共に喜ぶために」
サマリアの女が水瓶を置いたままで町へ帰っていった後、主イエスは突然「刈り入れ」の話をします。近辺には麦畑が広がっていたようです。しかしこれは実際の麦の収穫のことではなく、サマリアの人々のことです。女に導かれて、多くの人々が主イエスのもとにやってきたのです。
主イエスは「種を蒔く者も、刈り取る者も、共に喜ぶ」(36節)と仰いました。しかしユダヤ人にとって種まきは苦しみの業で、刈り入れこそが喜びの業でした(詩編126:5~6)。種蒔く者も刈り入れる者も「共に喜ぶ」というのはあり得ないことだったのです。一体なぜ共に喜べるのでしょうか。主イエスは「『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる」からだといいます。...刈り取る者は、自分の蒔いたものでない実りを刈り取るのです(38節)。これは「望外の恵み」、大きな喜びです。一方で、種蒔く者は、自分は実りを手に出来なくても、他人がその実りを得るのです。つまり「自分の働きは決して無駄にはならない」のです。だから「蒔く者も刈る者も、共に喜ぶことが出来る」のです。それが伝道・神の国の働きなのです。
「初めから終わりまで全部自分が担う」などということはあり得ません。「一人が種を蒔き、一人が刈り入れる」、これは何ごとにも当てはまりますが、こと教会の業、伝道は本当にそうです。一人の人間が信じる者となっていくために、どれだけ多くの人の祈りと労苦がそこに注がれてきたことでしょう。場所を超え、時代を越え、見ず知らずの者たちが同じ使命のために結ばれています。何と壮大な話でしょう。あちらの町で蒔かれたものが、遠く離れたこちらの町で刈り取られたり、二代も三代も前に蒔かれたものが、忘れた頃に収穫されるのです。わたしたちは目先のことではなく、何年、何十年先を思うことが許されているのです。
ですからわたしたちは、もし恵みを受けたならばそれを謙遜に感謝し、一方で、いつまでも労苦が報われない時には、「これは種まきであり、誰かが刈り入れるのだ。そういう大きな神の御業の中にいるのだ」と喜んで蒔き続けるのです。