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2022年06月12日更新
2022年6月12日 主日礼拝
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前 奏
招 詞 詩編113:1~3
讃 詠 546 (夕拝:183)
主 の 祈
使徒信条
聖 書 ヨハネによる福音書 7章25~36節 (新約p178)
牧会祈祷
讃 美 歌 183(2節まで)
説 教 「この人は救い主か」
祈 祷 内田 知 牧師
讃 美 歌 168(2節まで)
献 金
頌 栄 541
祝 祷
後 奏
説教「この人は救い主か」
仮庵祭の半ば、イエスさまは神殿で公然と語り始めました。それを見て人々は驚き、「この人はメシア(救い主)なのだろうか」と議論します。それに対して、主イエスは「自分は勝手に来たのではなく、父なる神のもとから来た」(28節~)、「やがて神のもとに帰ること、そこにあなたがたは来ることは出来ない」(33節~)と告げたというのです。ここで初めて「主イエスが何者なのか、救い主なのか」ということが論ぜられ、「主イエスがこれからどこへ行かれるのか」ということが語られたのです。
しかし人々はそれがまるで分からず、「どこの出身か知っている。どこに救い主らしさがあるのか」と思ってみたり、「どこに行くのか。ギリシア人のところにでも行くのか」というのです。...無理もありません。私たちがこの時この場にいたらきっと同じように考えたに違いないのです。
しかし後にイエスさまは、最後の晩餐の席で「私の父の家には住むところが沢山ある。...行って、あなたがたのために場所を用意したら、戻ってきて、あなたがたを私のもとに迎える。こうして、私のいるところにあなたがたもいることになる」(14:1~3)と言われました。主イエスの十字架の死は、私たちの罪のゆるしのためであると共に、天の住まいを用意するためのものでもあったのです。主イエスはそういう救い主だったのです。そしてそのことは、やがて明らかにされていくことになるのです。イエスさまの十字架と復活の光の中で分かってくるのです。
私たちは、神について救いについて、この世界や人生の悲しみや痛みについて分からないことだらけです。しかしそれらも、十字架と復活の光に照らして見るときに、やがてはっきりと分かるのです。そのために、主イエスは先に行かれ、すべてを用意してくださったのです。主イエスはそういう救い主なのです。