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2022年06月05日更新
2022年6月5日 主日礼拝 =ペンテコステ礼拝=
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前 奏
招 詞 使徒言行録1:8
頌 栄 542 (夕拝177)
主 の 祈
信仰告白
讃 美 歌 177 (2節まで)
聖 書 ヨハネによる福音書 7章1~24節 (新約p177)
牧会祈祷
讃 美 歌 21:346(聖歌隊)
説 教 「神の時と心に生きる」
祈 祷 内田 知 牧師
讃 美 歌 344
聖 餐 式
讃 美 歌 204
献 金
頌 栄 543
祝 祷
後 奏
説教 「神の時と心に生きる」 ヨハネによる福音書7章1~24節
仮庵祭も半ばになった頃、主イエスはエルサレム神殿の境内で公然と教え始めました(14節)。命を狙われていたのに(1節)、だから隠れてエルサレムに行ったのに(10節)、そして警戒の目が光っているのに(13節)、主イエスは大胆に語り始めたのです。
きっと「黙っていられなかった」のです。というのは、人々はイエスさまが語る言葉を聞いて、「学問をしたわけでもないのに、なぜこんなに聖書を知っているのか」と驚きます(15節)。それに対して、「これは自分の教えではなく、神から出たものだ」(16節~)と語ります。「私が勝手に話しているのではなく神の教えであり、神の促し、迫りの中で語っている」というのです。
主イエスの行った「一つの業」(21節:ベトザタでの癒やし)もそうでした。ユダヤ人は生後八日目に、それが安息日でも割礼を施します(22節)。その子の救いが掛かっているからです。ベトザタでも、主はそれが安息日でも癒やされました。その人の救いが掛かっていたからです。
主イエスは黙っていられず、癒やさずにおれなかったのです。危険でも、何を言われるか分かっていても。殺意を抱かれても。また悪評を得ようとも、好評を得ようとも。
ペンテコステの時、弟子たちもそうでした。彼らは身を隠していたのです。主イエスの弟子と分かれば危険が迫るかもしれないからです。しかも彼らは学問をしたわけでもないのです。しかしもはや何ものも恐れず外へ出ていき、神の救いの御業を大胆に語り始めました。聖霊が降ったからです。神さまの迫り、抗いがたい促しの中で、語らずにはおれなくなったのです。神さまの栄光のため、そしてみんなの救いのためです。
わたしたちも、我が身に同じことを祈り求めたいのです。信仰がよく分からないという方もあるでしょう。しかし弟子たちも分からなかったのです。復活した主イエスとしばらく共に過ごしても救いが一向に分からず、恐れと不安の中に閉じこもっていたのです。けれども、神の時が来て、神さまの導きの中で、すべて分からせていただく時が訪れたのです。この神さまの導き、抑えがたい信仰への促しが与えられるように、私たちは皆で祈りたいと思います。
また、すでに信じている者は大胆に宣べ伝えていくことが出来るよう、聖霊が注がれ、神さまの力強い促しを頂くことが出来るように。なぜならば、私たちは決して滅茶苦茶なことを信じ、宣べ伝えるのではないからです。「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3:16)、私たちはこの素晴らしい知らせを地の果てまで宣べ伝えていくのです。