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2020年04月12日更新
2020年4月12日(イースター礼拝)
~イースター礼拝~
前 奏
讃 美 歌 146(1節と2節)
主 の 祈 (週報裏面)
聖 書 コリントの信徒への手紙一
15章50~58節
(新約p322)
牧会祈祷
説 教 「死よ、驕るなかれ」
祈 祷 内田 知牧師
讃 美 歌 151(1節と2節)
洗 礼 式
讃 美 歌 199(1節と2節)
献 金
頌 栄 541
祝 祷
後 奏
報 告
※礼拝時間短縮のため
しばらくの間、プログラムを変更、
また司会もすべて牧師が担当します。
2020年4月12日主日礼拝 第一コリント15:50~58
第一コリント15章は復活について語ります。まず「キリストの復活」について、そしてそのキリストの復活のゆえに、「私たちも復活する」と宣言されています。今日の箇所にもわたしたちの復活ということが語られています。
ではこのわたしたち人間の復活はどういうものなのか? 「それは神秘である」と語られています。しかし同時に「それは確かなことだ」というのです。なぜ確かなのか? それは、「聖書の預言の成就だからだ、神の約束だからだ」というのです。
今日の冒頭でパウロは「兄弟たち、私はこう言いたい」、つまり「今から、大事なことを言う」と念を押します。そして、「ここであなたがたに神秘を告げる」と述べ、「わたしたちはたちまちにして、死人の中から神に呼び出される」というのです。その上で、「この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである」(54節)というのです。
パウロが私たちの復活の根拠とする聖書、「死は勝利に飲み込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のトゲはどこにあるのか」はイザヤ書とホセア書の引用です。実際にはこういう言葉です。「死を永久に滅ぼして下さる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい、御自分の民の恥を、地上からぬぐい去って下さる。これは主が語られたことである」(イザヤ25:8)、こう約束されているではないか、というのです。
考えてみれば、主イエスは聖書の御言葉・預言の成就です。まずその誕生、またその受難、これはイザヤなどの預言です。受難のお姿は詩編などにも克明に記されています。そして聖書に書いてあるとおり三日目によみがえられました。まさに主イエスのご生涯は、「神が約束を実行なさった」という証しです。神ご自身が、御自分の言葉の真実を主イエスで証明されたのです。そのイエスさまを見れば分かるではないか! それでパウロは断言するのです。「わたしたちは必ず復活する。死人は朽ちないものによみがえらされ、私たちは変えられる。必ずそうなる。なぜならすでにそう約束されているからだ」と。
そこまで語って、パウロは御言葉を引用し、死に向かっての勝利の宣言をします。「死は勝利に飲み込まれたのだ。死よ、お前はもう負けたのだ。お前のトゲはもうどこにもない!」。
ちょうどここでのパウロのように、死に向かって呼びかける詩があります。
死よ驕るなかれ、お前は強く恐ろしいと誰かが言ったかもしれないが、
お前はそうではないのだから、
お前が打ち負かしたと思っている人は、死んだのではないのだから、
可哀想にお前は私を殺すことはできないのだから。
お前の姿に似ている休息や眠り、
それらから多くの楽しみが流れ出る、
だからお前からはより多くの楽しみが流れ出るだろう。
程もなく私達の賢人がお前と共にこの世を去るだろう、
しかしそれは彼らの骨にとって休みとなり、彼らの魂にとって解放となるのだ。
お前は運命や災難、王や乱暴者たちの奴隷であり、
毒薬や戦争、病気と共に住んでいるのだ。
罌粟(けし)やまじないでさえ、お前の一打より
私達をよりよく眠らせてくれるのに、お前はなぜ威張るのか。
一眠りが終われば、私達は永久に目覚める、
死はもういなくなる、そして死よ、今度はお前が死ぬのだ。
(ジョン・ダン)
すべての人間にとって確かなことは今生きていること、そしてやがて必ず死ぬことです。何人たりとて死を避けることは出来ません。恐るべき力をもってすべての人を呑み込みます。自分もまた愛する者も、必ず死に打ち負かされるのです。しかし、「死よ、驕るなかれ」なのです。死は決して人を殺せない。睡眠は人に多くの楽しみをもたらすのだから、死からは更に多くの楽しみが得られる。死による一眠りが済めば、人は永遠に目覚め、もはや死ぬことはなく、本当に死ぬのは「死」そのものだ! ...今日の御言葉と同じ確信です。そしてこのわたしたちもこの確信の中を生きることができるのです。「神が約束して下さっているから」です。聖書の言葉を通して約束して下さっているのです。主イエスさまがよみがえられたからには、このわたしたちにもよみがえりの命が与えられるのです。ですからわたしたちも歌えるのです。勝利の言葉を語れるのです。愛する者を奪い取った死に向かって、また今この世界を、そしてわたしたちをも振り回し、大手を振っている死に向かって、「死よ、奢るなかれ!」、そう語れるのです!
それだけではない。そこでさらにパウロは、「だから、うろたえるな!」というのです。私たちはそう呼びかけられています。「愛する兄弟たちよ、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい!主に結ばれているならば、あなたがたの苦労は決して、無駄にはならない!」(58節)
「しっかり立つ」、これはもとの言葉では「座席」という言葉と関係があるのだそうです。これは、腰を据えて動かされない姿のことです。では、どこに腰を据えるのか?聖書の言葉です。「神さまの約束は必ず実現する」、そこに腰を据える。腹を据えるのです。「本当にそうなのかと立ったり座ったりソワソワするのではなく、そこにしっかりと立て! 腹を決めよ!」というのです。
そして、そこに腹を据えてみると素晴らしいものが見えてくるのです。それは「わたしたちのどんな苦労も、決して無駄にはならない」ということです。人生の一つひとつの苦労、「何とも愚かな失敗だった、徒労に終わった」、そんな苦労が一つとして無駄になることはない! 私の人生は無駄ではなかった! そのことが確かに見えてくる。 なぜならば、死んでお終いではないからです。まるで、絨毯を裏側から見ているように、でたらめにしか見えないこの人生も、この現実も、しかしやがて完成の時にひっくり返してみればそこに素晴らしい模様が出来上がっているように、やがてこの地上を離れ、神のみもとですべてを見させていただくときが来る! あの苦労、この涙の意味はこうだったのか、そうだったのかと、涙ぬぐわれるときが来る!
今この世界もうめいています。 なぜこんなことが起こるのかという試練の中にあります。しかしこの世界の苦難も、嘆きも痛みも、決して無駄では終わりません。なぜなら主イエスがよみがえったからです。そして主イエスさまがよみがえったからには、このわたしたちにもよみがえりの命が与えられるから、です。聖書を通して、神さまがそう約束してくださっているからです。
この約束に堅く立って、それぞれの人生の旅路に、そしてこの世界のそれぞれの持ち場に、主の業に励むために遣わされて参りましょう。