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2020年04月22日更新
2020年4月26日主日礼拝
前 奏
讃 美 歌 149(1節と2節)
主 の 祈 (週報裏面)
聖 書 士師記
11章29~36節
(旧約p402)
牧会祈祷
説 教 「神に従うということ」
祈 祷 内田 知牧師
讃 美 歌 338(1節と2節)
献 金
頌 栄 541
祝 祷
後 奏
報 告
2020年4月26日主日礼拝説教
エフタは父と遊女の間に生まれ、そのため蔑まれ、ついには故郷を追われてしまいます。やがて彼の下にはならず者が集まり、彼はその頭になります。しばらくしてイスラエルとアンモンの戦争が勃発します。すると彼を追放した人々が、「どうか指揮官になって欲しい」と願い出るのです。もちろんエフタは断りますが、「自分たちの頭になってもらうつもりだ」という条件をのみ、戦いの指揮を執ることになりました。
しかしアンモン人は手強くし、さすがのエフタも不安になったのでしょう。「この戦いに勝って無事に帰ってこられたら、最初に家の中から私を迎える者をいけにえにしてささげます」(30節)と誓うのです。ところが、その誓いが災いし、彼は父の勝利を祝うため真っ先に出迎えた一人娘を、大きな嘆きの中で神にささげることになってしまうのです。
聖書は「人身御供」を赦しません。それは「異教の忌むべき習慣だ」と固く禁じます。なのに、なぜこんな話が出てくるのでしょう。「軽々に誓うな」ということでしょうか。もちろんそういうこともあります。しかしこのエフタはヘブライ書11章で、「これ以上、何を話そう。もし、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう」(11:32)と、サムエルやダビデと同じようにその信仰が賞賛され、認められているのです。「娘をささげた」というその中身ではなく、「誓いをはたした」ことがほめられているのです。つまり、彼は自分にとってどんなにいやなことで都合の悪いことでも、信仰の筋を通したのです。それに比して、私たちはどれだけ自分に甘く、節操のない歩みを送っているでしょう。「あなたを信じます、従います」と誓ったにもかかわらず、神を信じる場面とそうでない場面、また従う時とそうでない時を見事に使い分けています。時には、見事なまでの言い訳を作り出して自分を正当化します。しかし、たとえ自分にとってどんなにいやで都合が悪くとも、従うべきことには従うのです。自分ではなく、神が主体となるのが信仰なのです。またそうでないと信仰の恵みとか喜びも、本当には与えられません。中途半端なことをしていては、中途半端な結果しか与えられないのは、信仰でも同じです。
厳しいと思うかもしれません。しかし神は都合のよいときだけ愛してくださるのではありません。私たちが信仰深い時にも神を見失っている時にも、神などあるかと悪態をつくようなときさえ、私たちを愛してくださる天の父です。主イエス・キリストによってそのことが確かなこととして示されています。
今、厳しい現実があります。「なぜこんなことが...」と言葉を失うような、悲しく悩ましい日々です。でも神を信じ、従い続け、祈り続けましょう。神が必ずを道を拓いてくださいます。