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2020年07月12日更新
2020年7月12日主日礼拝
前 奏
招 詞 詩編62:2~3
讃 美 歌 70
主 の 祈
聖 書 コリントの信徒への手紙二 1章3~7節 (新約p325)
牧会祈祷
説 教 「慈愛と慰めに満ちた神」
祈 祷 内田 知牧師
讃 美 歌 312
献 金
頌 栄 541
祝 祷
後 奏
報 告
説教「慈愛と慰めに満ちた神」
パウロはここで何度も「苦難」と語ります。実はこの手紙の大きなテーマの一つは「苦難」です。パウロは人一倍苦難を味わった人です。しかし他人事ではありません。わたしたちも生きているかぎり必ず苦しみや悲しみを味わうのです。
実は「苦難(スリプシス)」は示唆に富んだ言葉です。古代、胸の上に重いおもしをのせられるという刑罰があったそうです。それは「スリプシス」という刑罰でした。すなわち苦難とは、病気、失敗、友人の裏切りや思わぬ事故、愛する者の死...、いろいろありますが、それらによってわたしたちの胸が押しつぶされそうになる、それが苦難なのです。その苦しみの中で、「先が見えない」、「希望がもてない」ということがあります。それが苦難をさらにわたしたちの胸にのしかかるものとします。また苦難は、病でも死でもそうですが、最後は「自分」が、「自分の問題」として担わなければならないものです。
使徒パウロは大きな苦難を味わいました。11章には彼の苦しみの目録さえ出てきます。そして今この時も苦難の中にいました。今この手紙を書いているコリントの人々にも非難され、侮辱され、誤解されていたのです。
しかし、パウロはそこで不平不満や恨み言を言ったのではありません。彼はここで「慰め」という言葉を何度も語るのです。パウロにおいて、つまり、聖書において、「苦難と慰め」は決して切り離されていません。「苦難は決して苦難だけでは終わらない。必ず、神の慰めが与えられる」のです。
では、その慰めとは何でしょうか。それは目先の苦しみが無くなることではありません。なぜなら、またいつ新しい問題が起こるか分からないからです。
ここで語られている「慰め」の元になっている言葉(パラカレオー)は、「そばに招く」という意味です。自分のそばに招くのです。慰めとは「神さまが味方になってくさる」ということなのです。何があっても、どこに行っても、神さまが決して見捨てない、必ず味方でいてくださる、それが慰めなのです。
おさなごが涙を流しながら家路を辿る。しかしどんなに辛いことがあっても、そして何も聞かれずとも、家に帰って母親の懐に抱かれてしまえば、もう何事もなかったかのように心安らぐように、このわたしたちにも、どんなことがあっても自分の味方でいてくれて、自分を愛してくれる方がいてくださるのです。
慰めとは「苦しみがなくなること」ではありません。神の御国に至るまで苦しみは絶えないのです。すべてを御存知でいてくださり、「どんなことがあっても、わたしはあなたの味方だ」と仰る神がいてくださる、それこそがこの地上における真の慰めです。
わたしたちはこの慰めをしっかりと覚えると共に、この慰めをもって、苦難の中にある人たちを慰める者として歩んで行きたいのです。