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2021年09月26日更新
2021年10月3日 主日礼拝
前 奏
招 詞 詩編68:20~21
讃 美 歌 19(夕拝39)
主 の 祈
信仰告白
聖 書 ヨハネによる福音書 1章19~28節 (新約p163)
牧会祈祷
説 教 「あなたは何者か」
祈 祷 内田 知 牧師
讃 美 歌 341
献 金
讃 詠 545
祝 祷
後 奏
説教「あなたは何者か」
エルサレムから遣わされてきたユダヤ人たちは「あなたはどなたですか」と洗礼者ヨハネを詰問しました。するとヨハネは、そんなことは聞かれていないのに、「わたしはメシア(救い主)ではない」と答えます。少しちぐはぐな問答です。しかしこれはそれだけ「ヨハネはメシアではないか」と噂されており、ヨハネもそれを知っていたということでしょう。
「わたしはメシアではない」、これは大事な言葉です。なぜならば、「では誰がメシアなのか」ということになるからです。主イエスを救い主としないとき、私たちはしばしばこの世のものを我が救い主、我が人生や我が命のよりどころとしてしまうのです。しかしそれらは人生の荒波の中で、病や老い、罪や死の現実の中で、わたしのことを最後まで背負いうるものでしょうか。また私たちは、特にキリスト者は「メシアン・コンプレックス」に陥ります。自分が救い主になって、救わなければならないと思ってしまうのです。しかし私たちは、自分で自分を救うことなど出来ませんし、人のことをどこまでも背負うことも出来ないのです。私たちはメシアではないのです。
では、私たちは何者なのでしょうか。私たちはメシアではありません。そうであるならば、私たちはメシアのために心の王座を空けていなければなりません。そこに主イエスを迎え入れるのです。そのために、主の道をまっすぐにするのです。王さまを迎えるとき、道が出来、舗装され、景観まで整備されるように、我がうちに主の道を備え、救い主を迎え入れるのです。
そしてさらに私たちも、「主の道をまっすぐにせよ」と呼びかける「声」になるのです。ヨハネのことを「声」と定義するのは、この福音書だけです。声には自分の姿はありません。姿を消すのです。自分を消すのです。 そうやって救い主を指し示すのです。
私たちも、「それはメシアではない。それは本当の救いではない!」と指し示していきます。「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」と、まことの救い主を指し示していく者になるのです。