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2021年02月07日更新
2021年2月14日 主日礼拝
前 奏
招 詞 詩編135:1~3
頌 栄 539(夕拝42)
主 の 祈
使徒信条
聖 書 コリントの信徒への手紙二 7章5~16節 (新約p332)
牧会祈祷
讃 美 歌 73
説 教 「神の御心に適った悲しみ」
祈 祷 内田 知牧師
讃 美 歌 522
献 金
讃 詠 545
祝 祷
後 奏
報 告
説教「神の御心に適った悲しみ」
この時パウロは恐れと不安の中にいました。パウロはコリントの教会の信仰的な堕落に耐えられず、かなり率直で厳しい手紙を書いたのです(2:4)。パウロはその結果を心配し、不安に駆られたのです。...パウロは知っていました。「人間が正しいと思ってすることが、いつもよい結果をもたらすとは限らない」と。だからこそ心配になったのです。
わたしたちにも、相手を思って何かをする時に、残念ながらこちらの思いや意図が相手に届かないことがあります。でもそこで腹を立てたり失望したり相手を裁いたりせず、また自分を絶対化せず、相手を案じて不安になったパウロの愛や謙遜に教えられたいのです。
パウロの激しい手紙はコリントの人々を悲しませたようです(7:8)。しかし結果的にその手紙は奏功し、コリントの人々は悔い改めへと導かれました。そのことを知ったパウロはこう語ります。「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」(7:10)。
「神の御心に適った悲しみ」と「この世の悲しみ」は、全く別の悲しみがあるということではありません。「悲しみ方」です。その悲しみを「神さまの御前でとらえるか」、「そうでないか」の違いです。悲しむ時に「どう悲しむか」、「その悲しみをどこで捉えるか」によって全く違う展開が起こります。
人として生きる限り、わたしたちは失敗します。その中で悲しみ、悔やむことしばしばです。しかしただ悲しみ後悔するだけでは、望みはありません。自分の失敗ばかりにこだわって、神さまがその失敗を用いて新しいことをして下さることを認めようとしないからです。
信仰者の恵みは、悲しまないこと、失敗しないことではありません。恐れや不安、痛みがないことではありません。それらを神さまの御前でとらえられることです。神さまがそれを必ずよきものへと変えてくださいます。ここでのパウロも、コリントの人々もそうだったのです。
わたしたちは失敗します。正しいことをし、愛と真実に生きようとしても、よい結果になるとは限りません。悲しく残念なことです。でもそれを神の御前で捉え直すことが出来るのです。