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2021年08月15日更新
2021年8月22日 主日礼拝
前 奏
招 詞 詩編113:1~3
頌 栄 542(夕拝49)
主 の 祈
使徒信条
聖 書 コリントの信徒への手紙二 13章1~4節 (新約p341)
牧会祈祷
讃 美 歌 13
説 教 「耳を澄まして」
祈 祷 内田 知 牧師
讃 美 歌 354
献 金
頌 栄 540
祝 祷
説教「耳を澄まして」
「今度そちらへ行ったら、容赦しません」(2節)。パウロはずいぶん憤慨しています。キリストが「パウロを通して語っている」ことを認めない人々がいたからです(3節)。
私たちにも説教が聴けなくなることがあります。もちろん説教者も欠点があり、改めるべきところもあり、何より罪人の一人です。しかし説教が聴けなくなることをすべて説教者のせいにしてただ批判するだけなら、それは正しい信仰の姿勢ではありません。また説教が聴けなくなるということは、「本来、説教を通して与えられるはずの慰めや導き、祝福が受けられない」ということです。それは自分に対して神さまが沈黙しているということでもあります。私たちはともすると、神の言葉を「労せずして簡単に与えられるもの」のように考えていないでしょうか。しかし本当は「僕は聞きます、主よお語りください」(サムエル)、あるいは「祝福して下さるまではあなたを離しません」(ヤコブ)のような熱心な求めがなければ十分に聞けないのではないでしょうか。逆にいうと、そのような心があれば、私たちはいつでもどこでも、誰からでも、神の語りかけを聞けるはずなのです。「今日も何か一つでも恵みや祝福を受けとろう」という気持ちや祈りをもって礼拝に臨みたいのです。
主イエスは故郷のナザレでお語りになったとき、「預言者は故郷では敬われない」と嘆かれました。人々は「主イエスにつまずいた」(マルコ6:3)のです。そして残念なことに、主イエスを通して与えられる神の恵みを何一つ手にすることが出来なかったのです。...私たちにも同じようなことがないでしょうか。神はパウロを通し、また欠け多き器・説教者を通して、あるいは普段からよく知っているような人との関わりを通して、また何でもないような出来事を通してさえ私たちを力づけ、導くことがあります。あの呪いと滅び、死と滅びのしるしでしかないような十字架を通して御業をなさるのが、私たちの信じる神さまなのです。