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2021年08月01日更新
2021年8月8日 主日礼拝
前 奏
招 詞 詩編46:9~11
讃 詠 546(夕拝48)
主 の 祈
使徒信条
聖 書 コリントの信徒への手紙二 12章19~21節 (新約p340)
牧会祈祷
讃 美 歌 12
説 教 「キリストの御前に立つ」
祈 祷 内田 知 牧師
讃 美 歌 518
献 金
頌 栄 541
祝 祷
説教「キリストの御前に立つ」
パウロとコリントの教会との関係はこじれていました。しかしパウロはそんな相手に対して語る中で、「私は神の御前で...語っている」(19節)といいます。これは信仰者の原点です。私たちは「神さまの御前」に生きています。私たちはのすることは全て「キリストの御前での振る舞い」なのです。そうであれば、私たちは決して愛のない言動、不誠実で不真面目な言動など出来ません。
またパウロはそのコリントの人々を「心配し、再びそちらに行く」といいます。パウロを誹謗中傷し、相変わらず罪や不品行の中に生きる彼らのことを、パウロは決して見捨てません。心配し続け、関わり続けようとするのです。...これはきっとパウロが「自分もキリストから見捨てられなかった」からです。そのような意味でも、彼はキリストの御前に立っていたのです。私たちも教えられるべき在り方です。
20節以下は、キリストの御言でもあります。キリストは「心配して」おられます。そして「再びそちらに行く」と約束をしておられます。しかしもしキリストが今おいでになれば、私たちを見てどう思われるでしょうか。コリントの人々のように争い、妬み、怒り、党派心、そしり、陰口、高慢がないでしょうか。以前の罪の中に歩み続け、十字架にかかられたキリストが面目を失うような生活を送っていないでしょうか。
キリストはいつおいでになるか分かりません。私たちはいつキリストの前に立つか分かりません。だから私たちは、「いつか」信仰者として生きる」のではなく、「今」キリスト者として、キリストの御前を生きていくのです。