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2021年07月25日更新
2021年8月1日 主日礼拝
前 奏
招 詞 詩編23:1~3
頌 栄 544(夕拝45)
主 の 祈
信仰告白
聖 書 コリントの信徒への手紙二 12章11~19節 (新約p340)
牧会祈祷
讃 美 歌 11
説 教 「目的を見失うな」
祈 祷 内田 知 牧師
讃 美 歌 329
献 金
讃 詠 545
祝 祷
説教「目的を見失うな」
パウロは自分がキリストの使徒であることを、不思議な業などでも示してきました(12節)。また親が子のために財産を蓄え、お金を工面するように、コリント教会に経済的負担を掛けませんでした。「今後もそのつもりはない」のです(14~15節)。このように一切の負担すら掛けず、彼らを愛し抜いたにもかかわらず、彼らから「だまし取った、献金を着服した」ということになっていたのです(16節)。そんなことあろうはずもないことは、先に派遣したテトスたちによってもすでに明らかなのです(17~18節)。しかし何を言っても、「自己弁護をしている」(19節A))と言われてしまうのです。
しかしパウロはそれでも腐りません。「私はいつも神の御前に立って、キリストに結ばれて語ってきた。私が願っているのは自分の立場を守ることではない。それはあなたたちが、その信仰が、教会が、『造り上げられること』、ただこの一点なのだ」と述べるのです(19節B)。
私たちにも二進も三進もいかない問題が起こります。そのように、万策尽きてもはや為す術がない時にどうすればいいのか? 最後は「聖霊に支配される」ほかありません。つまり、「自分を捨て、神さまの導きに委ねる」ということです。しかしそこでもう一つ大事なのは、「決して腐らない」ということ、「嫌になって放り出したりしない」ということです。
私たちは目の前の問題のことですぐに頭や心が一杯になります。しかしそれはいわば枝葉のことであり、私たちはそれらに必要以上に目や心を奪われてはならないのです。そうではなくてもっと大きな目的、最初の目的、あるいは最終的な目的をしっかりと見据えなくてはならないのです。
私たちも、一体自分は何のために生きているのか? キリスト者としてこの教会に、その家庭に、職場に、地域にいる、その本当の目的を見失っていないでしょうか。