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2020年10月04日更新
2020年10月11日 主日礼拝
前 奏
招 詞 詩編100:1~3
讃 詠 546 (夕拝:50)
主 の 祈
使徒信条
聖 書 コリントの信徒への手紙二 3章12~18節 (新約p328)
牧会祈祷
讃 美 歌 87B
説 教 「主のほうに向き直れ」
祈 祷 内田 知牧師
讃 美 歌 355
献 金
讃 詠 545
祝 祷
後 奏
報 告
説教「主のほうに向き直れ」
ここでのモーセは「律法」の象徴です。そのモーセが「消え去るべきものの最後を見られまいとして顔に覆いを掛けた」(13節)といいます。その顔に掛かっていた「覆い」とは、ここでは「罪」と置き換えればよいでしょう。 すなわちこの箇所が語るのは、「旧約聖書の律法は素晴らしいものだ。しかしその律法があぶり出すのは人間の罪であり、その罪が栄光の神と人間との間の妨げになっている。人間はその罪ゆえに神にまみえることが出来ないのだ」ということです。 しかしその覆いは「キリストにおいて取り除かれるもの」(14節)、「主キリストに向き直れば、その覆い・罪が取りのけられ(16節)、神さまにまみえることが出来、救われるのだ」というのです。
讃美歌66番に、「聖なる、聖なる、聖なるかな。罪ある目には見えねども、御慈しみの満ちたれる、神の栄えぞ、たぐいなき」とあるように、罪ある者は神にまみえることが出来ません。ではどうすればいいのか?精進し、修行を積み、邪念を捨てればきよくなれるのか? 「そうではない。主に向き直れ。主イエスは十字架の血潮でわたしたちを清くされた。わたしたちの罪をすべて背負ってくださった。この主イエスに向き直ることが清くせられ、なおかつ栄光の主なる神さまにまみえる唯一の道だ」、それが今日の箇所がわたしたちに語ることです。
神は聖なる方、断固として罪や汚れを忌み嫌われ、厳格に裁かれるお方です。それが聖書の神です。それは今でも変わりません。神は今でもやはり不義を憎み、罪を憎み、断じてそれを認めたり、見逃したりなさらず、厳しく裁きになるのです。 しかし神はその怒りをどこに向けられたのか? 「ご自身の一人子イエス・キリストに向けられた」のです。 その怒りを主イエス・キリストの十字架にむかわせた。 本来ならばこのわたしたちに降りかかってくるはずの怒りや裁きが、十字架のイエスさまの上に降りかかったのです。このことによってわたしたちは赦され、今あるを得ているのです。
この世界も恐ろしい罪と不義に満ちた世界です。「一体なぜこんなことが起こるのか? 神さまはなぜこんなことをおゆるしになるのか?」と嘆かざるを得ない世の中です。しかしこの世界に対しても神は無力なのではない。為す術がないのではない。神は今も深い嘆きと悲しみをもって、また激しい怒りをもって世界を見つめておられます。しかしその怒りをこの世に対して振り向けるのではなく、御子イエスさまの十字架の上に振り向けておられるのです。そして、「それに早く気づいて欲しい、わたしの愛に気づいて立ち返って欲しい」と願っておられるのです。
パウロはそのことを知って欲しいのです。「この神さまの義と愛がぶつかり合った主イエスに、十字架の主イエスに向き直って欲しい! そして罪赦されている自分であることを知って、覆いを取りのけられて神に立ち返り、神を仰ぎ見る者となって欲しい!」、それがパウロがここで語っていることです。