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2020年10月11日更新
2020年10月18日 主日礼拝
前 奏
招 詞 詩編96:1~3
頌 栄 539 (夕拝:51)
主 の 祈
使徒信条
聖 書 コリントの信徒への手紙二 4章1~12節 (新約p329)
牧会祈祷
讃 美 歌 88
説 教 「土の器に盛られた宝」
祈 祷 内田 知牧師
讃 美 歌 352
献 金
頌 栄 540
祝 祷
後 奏
報 告
説教「土の器に盛られた宝」
使徒パウロは、「落胆しない」(1節)と力強く宣言します。しかしこれは自分の強さや立派さを誇りたいのではありません。彼は自分のことを「土の器」(7節)といいます。何かあるとすぐに割れるような脆い土器、美しさも強さも、何の誇るところもない器なのです。これはわたしたちのことでもあります。わたしたち人間は青銅ではなく鉄でもなく、まして金や銀でもなく、神によって「土の塵から造られた」(創2章)のです。そして「死ぬはずのこの身」(11節)といわれているように、わたしたちの体は壊れることになっているのです。不滅ではなく、古び衰え、いつかは粉々になるのです。
またわたしたちは「土」であると同時に「器」なのです。中に何かを入れてこそ「器」であって、観賞されるだけならば、それは本来あるべき器としての命に生きていないのです。「土から出来た存在であり、入れ物として創造された」、それが聖書の一つの人間観です。人間の悲劇はこれを忘れることです。あるいはこれを知らないでいることです。
わたしたちは自分をいったい何者だと思っているでしょう。金の杯や銀の杯、永遠に変わらない立派で強くて美しい器でしょうか。自分を輝かせることばかり考えていないでしょうか。また「自分が器だ」ということを忘れてはいないでしょうか。忘れていなくても、その中に一体何を何を納めているでしょうか。 人間は器ですから、中に何も入っていなければ空しいのです。それで人間は自分を喜ばせ満足させる物、紛らわせられる物を自らの中に納めます。今の時代は様々なものが溢れています。退屈しのぎならいくらでも出来ます。しかしそれはわたしたちを何があっても生かし支えるものでしょうか。「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされず、死のはずのこの身に命を与える」ような、並外れて偉大な力、何物にも変えがたい本当の宝でしょうか。
わたしたちは「土の器」です。でもそこに「納めるべき宝」、主イエス・キリストの福音を与えられているのです。