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2020年10月18日更新
2020年10月25日 主日礼拝
前 奏
招 詞 詩編107:1~3
頌 栄 542 (夕拝:34)
主 の 祈
聖 書 サムエル記上 1章1~20節 (旧約p428)
牧会祈祷
讃 美 歌 92
説 教 「嘆きの河、溢るとも」
祈 祷 内田 知牧師
讃 美 歌 284
献 金
頌 栄 543
祝 祷
後 奏
報 告
説教「嘆きの河、溢るとも」
サムエルの母ハンナには長く子どもが与えられませんでした。そのため夫のもう一人の妻、ペニナにずいぶん苛まれていたようです。この時はついに堪えきれず、食事もできず、神殿に行って一心不乱に祈っていたようです。...子どもがいないのは当時の女性にとって大変な悲劇です。その上さらに夫のもう一人の妻からもいじめられます。しかも自分の努力で克服できる問題でもありません。しかし彼女は、このどうしようもない痛みや悩みの中で「神殿に来て」、「祈った」のです。...苦しみや悩みを安易に「神の恵みだ」とは言えません。しかし苦しみを通して神により近くされる、神がいと近く呼び寄せてくださる、そういうことがあるのではないでしょうか。
その後、彼女は帰っていきます。そして「それから食事をし」、さらに「彼女の表情は、もはや前のようではなかった」(18節)といいます。...彼女の状況は神殿に行く前と後で何も変わっていません。子どもが与えられたわけでも、神から直接その約束を受けたのでもないのです。しかし彼女は明らかに変わっていたのです。
彼女はそれまで、「子どもさえ与えられれば...」と思っていました。ところが、彼女は神殿で「男の子を与えて下さい。そうすればその子の一生を主にささげます」と祈っています。しかし「生まれてくる子を神にささげる」と、ハンナには結局何も残らないのです。しかし彼女は神殿で、「そうする」と誓います。つまり、彼女は神の前に立って祈る中で分かったのではないでしょうか。「子どもが与えられることが一番重要なことではないのだ」と。
これまで彼女は、「子どもさえいれば」と思い続けました。しかし彼女は「これさえあれば...」というところから、「何がなくても、神と共に、神に信頼して歩んで行ければもうそれで十分なのだ」、そこに導かれていったのではないでしょうか。
私たちもしばしば「これさえあれば」と思います。また「これがなければ生きていけない」と思っているものを失い、悲嘆に暮れることもあるでしょう。でも、「これが無くても、何を失おうとも」、神がわたしの主であり、この神に信頼して生きていける、このことが私たちにも実に必要なことではないでしょうか。