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2020年06月21日更新
2020年6月21日主日礼拝
前 奏
招 詞 詩編125:1~2
讃 美 歌 66(1節と2節)
主 の 祈
聖 書 コリントの信徒への手紙一16章21~24節 (新約p324)
牧会祈祷
説 教 「主よ、来てください」
祈 祷 内田 知牧師
讃 美 歌 172(1節と2節)
献 金
頌 栄 541
祝 祷
後 奏
報 告
※礼拝時間短縮のため、しばらくの間、プログラムを変更、司会もすべて牧師が担当し、讃美歌は2節までとします。
説 教「主よ、来てください」
パウロの最後の挨拶です。ところがそこで、「主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい」といいます。驚くような言葉ですが、ここにパウロの思いが込められています。強い言葉で、「なんとしても主を愛する歩みを送って欲しい」と呼びかけるのです。信仰は結局、「主を愛する」ことに尽きます。「主を愛し、主と主に歩む」のです。
パウロは続けて「マラナ・タ(主よ、来てください)」と語ります。これは初代教会の時代、異教世界で生きるキリスト者たちの合い言葉で、また聖餐式の時にこの言葉をみんなで唱えたといいます。「主よ、来てください!」、これは迫害を受けるキリスト者たちの心からの祈り、叫びでした。この言葉で励まし合ったのです。
この「主よ、来てください!」という祈り、いわゆる「再臨」の信仰は聖書を貫く大切な教えです(マルコ13章、使徒1章、ヨハネ黙示録等)。否、これは「全世界の希望」であり、ここに「真の慰め」があります。
というのは、わたしたちの生きるこの世界は解決できない問題で溢れかえっています。人間の恐ろしい罪、それによって生み出される悲劇が渦巻いています。自然界もそうです。弱肉強食があたりまえの世界です。またそれぞれの人生もなんと理不尽に満ち、悲しい涙に溢れていることでしょう。
しかし聖書は「それでお終いではない!」というのです。「主がおいでくださる時が来る! その時、新しい天と新しい地が創造され、すべてが完成される。その時、主イエスは皆の目から涙を全く拭い取ってくださる」と。...この世の悩みや悲しみは、主イエスが再び来られるときには、すべて解決されるのです。これが、「マラナ・タ、主よ、来てください」の意味です。わたしたちが生きているときには解決しなくても、主がおいでくださる時にはすべてが説き明かされる。これはわたしたちの大きな希望であり、この世界の希望であり、慰めです。
わたしたちはその時まで「主を愛する者」として「主と共に歩む」のです。
春を待つ/それだけでも希望だ/それだけで冬を越す勇気がわいてくる
まして私に/生きることを教えてくださった方が/再び来られる日を/待てたら...。
(星野富弘 「春を待つ」)