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2020年09月06日更新
2020年9月13日 主日礼拝
前 奏
招 詞 詩編55:23
頌 栄 542 (夕拝:44)
主 の 祈
聖 書 コリントの信徒への手紙二 2章12~17節 (新約p327)
牧会祈祷
讃 美 歌 80
説 教 「分かれ道に立つ時」
祈 祷 内田 知牧師
讃 美 歌 296
献 金
頌 栄 543
祝 祷
後 奏
報 告
説教 「分かれ道に立つ時」
この箇所の背後にはパウロの苦悩が見て取れます。「多くの実りが期待出来るトロアスで伝道を続けるべきか」(12節)、それとも「コリント教会の牧会のためマケドニアに行ってテトスに会うべきか」(13節)、この二つで迷っていたのです。使徒パウロも、いつも確信に満ちて力強く歩んだわけではなく、迷いや悩みの中で神さまの御心を求めつつ歩んでいったのです。
わたしたちにも迷うことがあります。でもそれをあまりよいことだとは思っていないかもしれません。「迷うのは確信や信念がなく、優柔不断だからだ」と。決してそうではありません。「人間は努力する限り迷うもの」(ゲーテ)なのです。真剣に、真実に生きているからこそ迷うこともあるのです。...しかしいつまでも迷っているわけにはいかず、決断すべき時が来ます。そういう分かれ道に立つ時に、素晴らしい道を選び取れる根拠をもっていれば、なんと幸いなことでしょうか。
パウロはこの迷いの中で「マケドニアに行く」という決断をしました。実り多き、前向きで建設的な「トロアス伝道」ではなく、「コリント教会問題」、まさに火中の栗を拾いに行くような、苦労の多い働きを選んだのです。...ここにキリスト者の歩むべき道があります。しかしこれは「迷ったら損を取れ」とか、「苦労は買ってでもしろ」といった人生訓や道徳訓のようなものではありません。これは極めて信仰的な決断であり、キリストに従う道なのです。考えてみれば、主イエスの歩まれた道もそうでした。あのゲッセマネの園で主は、「私の思いではなく、御心のままになさってください」と茨の道、十字架の道を選び取って行かれたのです。
しかし見逃してはならないのが、「そのイエスさまがどうなったのか」です。よみがえられたのです。苦しみの十字架の死の先に、神は光り輝く勝利を用意しておられたのです。
それは、このパウロもそうでした。パウロは続けて言います。「神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ」てくださった、と(14節~)。
迷いの中で労多き道を選ぶ。その道はキリストの勝利の行進、キリストの勝利の凱旋につながっている道なのです。