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2020年08月30日更新
2020年9月6日 主日礼拝
前 奏
招 詞 詩編103:1~5
頌 栄 542 (夕拝:43)
主 の 祈
聖 書 コリントの信徒への手紙二 2章5~11節 (新約p327)
牧会祈祷
讃 美 歌 79
説 教 「赦し、力づけ、愛する」
祈 祷 内田 知牧師
讃 美 歌 385
献 金
頌 栄 543
祝 祷
後 奏
報 告
説教「赦し、力づけ、愛する」
偽教師の教えを教会に持ち込んでパウロを批判し、教会を混乱させた人がいました。教会の混乱が収まった後、この人は多くの人々から責められたり、非難されたりしたようです(6節)。それでパウロは、「彼はあなたがたから受けた非難の言葉でもう充分罰せられている。あとは彼が悲しみに打ちのめされてしまわないよう、赦し、力づけ、愛しなさい」と言うのです(7~8節)。
もちろんパウロはここで、「罪を見逃しなさい」といっているのではありません。罪に対してはちゃんとけじめがつけられなければなりません。裁きや正義は必要であり、大切なものです。しかし裁きが行われればそれでいいのではなく、正義が立てばそれでいいのではありません。そこでさらに「愛」が立たなければならないです。これはキリスト者の行動規範であり、考え方の基準です。自分が何かをしたり言ったりする時、ただ正義が立ち、筋が通るだけでは半分です。それが本当に人を生かす言葉なのか、人を生かす行いなのか、それによって正義だけでなくて、そこで愛が現される。すなわち神の栄光が表され、福音を証しすることになっていく、それがさらに大切なのです。愛のない正義はただの律法主義です。どんなにこちらが正しいことを言っていても、そして確かに相手が間違っていても、ただ相手を正義の鉄槌で打ちのめすだけのあり方を、神は決してお喜びにはならないのです。
またパウロは「サタンにつけ込まれるな」といいます。(11節)。これは意味深長です。わたしたちが人をただす時、裁く時、叱る時、そのように「自分が正しい時」というのは、しばしば、心の中にサタンに付け入るすきを与えてしまうことがあるのです。
人をただすことは大切なことです。しかしその時、ただ裁くだけではなく、そこで赦し、力づけ、愛することができればなんと幸いなことでしょうか。思えば、わたしたちは主イエスにそうしていただいたのではなかったでしょうか。