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2021年11月07日更新
2021年11月14日 主日礼拝 =召天者記念礼拝=
前 奏
招 詞 詩編68:20~21
頌 栄 544(夕拝48)
主 の 祈
使徒信条
聖 書 ヘブライ人への手紙 11章13~16節、12章1~3節 (新約p415)
牧会祈祷
讃 美 歌 6(2節まで)
説 教 「天の故郷を望みつつ」
祈 祷 内田 知 牧師
讃 美 歌 482(2節まで)
記 念 式
讃 美 歌 510(1節と4節)
献 金
頌 栄 541
祝 祷
後 奏
説教「天の故郷を望みつつ」
召天者記念礼拝では、天に召された方々の写真を掲示します。これは「共に礼拝をしている」ことを表しています。わたしたちの礼拝は、天国での輝かしい礼拝につながっているのです。また死んだ方々は跡形もなく消滅してしまったのではなく、今も神さまの御許で、証人として私たちを囲んでいます(12:1)。写真はそのしるしです。
ヘブライ書11章には、私たちを取り囲むおびただしい証人たちの代表者が出てきています。しかし、そこに出てくるアベル(4節)もエノク(5節)もノア(7節)も、アブラハム(8節)もイサク(20節)もヤコブ(21節)も、ヨセフ(22節)もモーセ(23節)も娼婦ラハブ(31節)も、そして「士師たち」や「預言者たち」(32節)、「殉教者たち」(35節以下)も、うなってしまうような生涯をたどっているのです。彼らは途上の死、突然の死、不幸な死を遂げ、裏切られたり、見捨てられたり、売り飛ばされたり、さげすまれたり、挫折したり...、そこにはさまざまな生と死があるのです。苦悩があり、涙もあるのです。みんなそういう人たちなのです。しかし考えてみれば主イエスの十字架の死は途上の死、突然の死、人々の悪意によってもたらされた死であり、またうらまれ、憎まれ、裏切られ、見捨てられ、売り飛ばされ、嘲笑されたのです。ここに出てくるあらゆる苦悩と恥辱、痛みと孤独、そして死を、何もかも主イエスが味わわれた。すなわち「全てが主イエスによって贖われている」のです。ここに出てくるみんながこの地上での仮住まいを終えて、全てを贖われ、神さまが彼らのために準備されていた「天の故郷」に招かれているのです。そして今や私たちを取り囲む、天の証人たちとして見守っているのです。これは写真で掲示されている先に召された方々も同じです。彼らも全ての悩み、無念、痛み、躓き、失敗、罪、破れ、その全てが主イエスによって贖われています。そして仮住まいであるこの地上の生涯を終え、神が準備された天の故郷に招き入れられ、今や私たちを取り囲むかのようにして見守り、「ゴールを目指して走り続けよ、神の国を目指し、全ての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、忍耐強く走り続けよ。気力を失い、疲れ果ててしまわないように、主イエスを仰ぎながら、走り続けよ。そして天の故郷で、神の御許であなたを待っている」と述べているのです。