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2021年05月16日更新
2021年5月23日 主日礼拝 =ペンテコステ礼拝=
前 奏
招 詞 詩編51:12~14
讃 詠 546(夕拝183)
主 の 祈
信仰告白
聖 書 コリントの信徒への手紙二 10章7~18節 (新約p336)
牧会祈祷
讃 美 歌 183(2節まで)
説 教 「誇る者は主を誇れ」
祈 祷 内田 知 牧師
讃 美 歌 498(2節まで)
献 金
頌 栄 543
祝 祷
「誇る者は主を誇れ」
コリントにやってきた偽教師たちはパウロを非難し、貶めていたようです。パウロは「うわべのことだけ」(7節)で判断され、「キリストのもの」(7節)ではないと使徒職を否定されました。かつて迫害者だったことをあげつらい、彼の回心前後にまつわる内面的な戦いやキリストとの出会い、信仰理解など全く問題にされないのです。また容貌や語り口まで攻撃の的にされます(10節)。要するに「姿形は貧相で、弱々しく、話は下手だ」と言われるのです。 そして実際にそのとおりだったともいわれます(ガラテヤ4:14や「パウロ・テクラ行伝」等)。また「話はつまらない」というのは、雄弁家が重んじられる古代ギリシアの町コリントでは致命的な欠点です。見栄えもせず、話も上手でない...。ひょっとしたら、パウロにも様々なコンプレックスがあったかもしれません。
パウロには、自分自身の中に誇るものは何にもなかったのです。しかし一つだけ、17節で、また他の箇所でもしばしば語るように「誇るものは主を誇れ」ということ、まさに主イエスをのみ、彼は誇りとしていました。 パウロは自分のことを「土の器」と呼んでいましたが(4:7)、まさに彼は自分という器ではなく、その中に盛られた宝を誇りとしていたのです。
かつての彼は違いました。以前は自分の血筋、教養や知恵、熱心さを誇りとしていました(フィリピ3章)。しかしその誤った誇りは彼を高慢にし、人を攻撃し、裁くものとしていたのです。
人は本当に誇るべきものを知らないと、自分を誇るようになります。しかし力ある人がその力を誇り、美しい人がその美しさを誇ることほど、愚かで醜いことはありません。またそういう誇りはいつか必ず破綻します。それらはいつか必ず失われるのです。わたしたちは「土の器」であり、「布きれ」です。それぞれ地上の旅路を辿る中で欠けを生じ、破れを抱え、シミや汚れがこの身に染みつき、ボロ布になっていくのです。
わたしたちが「何を誇りとするか」ということは、言い換えれば「何を喜びとしているか、何を拠り所としているか」ということです。自分を喜び、自分を拠り所として、わたしたちは生きていけるか? 死んでいけるか? あるいは、信仰とは何か? 信仰とは自分を喜ぶことか? 自分を拠り所とすることか? 信仰とは「主を誇りとし、主を喜ぶこと」です。