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2021年06月06日更新
2021年6月13日 主日礼拝
前 奏
招 詞 詩編71:1~3
讃 詠 546(夕拝37A)
主 の 祈
使徒信条
聖 書 コリントの信徒への手紙二 11章7~11節 (新約p336)
牧会祈祷
讃 美 歌 2(2節まで)
説 教 「悪評を受けても」
祈 祷 内田 知 牧師
讃 美 歌 342(2節まで)
献 金
頌 栄 540
祝 祷
説教「悪評を受けても」
コリントでパウロは無報酬で伝道しました。それはコリントの人々に負担をかけたくなかったからです(9節)。またコリント教会には内部で分派争い(第一の手紙1章)もあったので、自分への報酬の問題で「さらに人々の間の亀裂が深まってはならない」という牧会的配慮もあったようです。偽使徒たちはそのことさえ攻撃の的にしました。「パウロが報酬をもらわないこと自体、彼が真の使徒でないしるしだ」とおとしめたのです。するとコリントの教会の中にもそれに同調する人たちが出てきたのです。
善意でしたことが裏目に出ることがあります。誤解されることもあります。悪し様に言われてしまうこともあります。それは本当につらく耐え難いことです。一方でこちらも誤解し、うがった目で見、相手の事情も知らないで裁いたりすることがあります。...人間とは本当に難しく、悲しい存在です。
パウロの愛と配慮を知らず、知ろうともせず、悪し様に非難する人たち。それに同調する人たち。これはわたしたちのことでもあります。そこにあるのは、相手の事情を知ろうとしない「愛の欠如」です。あるいは相手を陥れようとする「罪」があります。その愚かさや恐ろしさを思いたいのです。
一方で、誤解されたり、悪評を受けることもあります。しかしパウロはそういう誤解や悪評を受けても、コリントの教会に、「これからも負担をかけないでやっていくつもり」(9節)だといいます。これからも愛と配慮を持って関わり続けていくと言うのです。このパウロに倣いたいのです。もちろんわたしたちは自分の力や愛では、そんなことは到底出来ません。でもこれはパウロもそうでした。しかしパウロはそこで主イエスのことを思い起こすのです。彼は「わたしの内にあるキリストの真実にかけて言います。このようにわたしが誇るのを、アカイア地方で妨げられることは決してありません」(10節)と、キリストを思い出し、キリストを自分の内に迎え入れ、キリストの真実に立つのです。
わたしたちの真実さなど、全く当てになりません。主イエスは、人となられ、皆の罪を背負って十字架にかかられました。この愛こそ、真実です。パウロは自分ではなく、このキリストの真実に目を注ぎ、そこに立ち続けるのです。
それでも、心折れそうになることもあるでしょう。しかし神がおらるのです。私たちの愛、心、悲しみ、悔しさ...、全てを「神がご存知で」いてくださるのです(11節)。わたしたちもこのパウロの信仰に続くものでありたいのです。