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2021年07月11日更新
2021年7月18日 主日礼拝
前 奏
招 詞 詩編62:2~3
頌 栄 542(夕拝43)
主 の 祈
使徒信条
聖 書 コリントの信徒への手紙二 12章1~10節 (新約p339)
牧会祈祷
讃 美 歌 9
説 教 「弱さの中の力」
祈 祷 内田 知 牧師
讃 美 歌 532
献 金
頌 栄 543
祝 祷
説教「弱さの中の力」
パウロは「誇る」ことの愚かさを知りながら「私は誇らずにいられない」と語り出します(1節)。しかし彼がここで語ったことは「一人の人」(2節)についてでした。その人は「第三の天」(2節)や「楽園」(4節)にまで引き上げられ、「人が口に出来ない言葉を耳にした」(4節)と言います。要するに「大変神秘的な体験をした」ということです。
当時のコリント教会では神秘的体験や異言を語る賜物が重視されていたようです。しかしパウロは、「皆が集うときには異言よりも預言を大切にするように」と述べていました(第一コリント14章)。すると偽使徒たちは「パウロは神秘的な体験をしたことがなく、信仰的に浅い人間なのだ」と批判したのです。そこでパウロはここで自分の神秘的な体験を語りました。しかしその際パウロは、「私は一人の人を知っている」と他人事のように語ります。パウロは自分にではなく、「神さま」に注目をしてもらいたかったのです。そして、パウロは、「自分自身について誇るべきことがあるなら、自分の弱さを誇ろう」と、「自分に与えられた一つのとげ」について語りはじめるのです。
この「とげ」とは「病」のことだったと言われます。詳細は分かりませんが、パウロはこれが取り除かれるように三度、つまり徹底的に祈りました。「これさえなければ」と思ったのです。そうすれば、神の栄光のため、隣人の救いのためさらに豊かに働けるのです。しかし神はそれに答えてくれませんでした。けれどもパウロは、その時知ったのです。「自分が強く力ある時には神により頼まず、神の力や恵みを真実に知ることは出来ない。弱い時にこそ知ることが出来る」。そして「それなら私は自分の弱さを誇りとしよう。私は、自分が弱さの中にある時、迫害される時、侮辱される時、貧しい時、行き詰まる時、そういう苦しい時こそ、キリストが共にいてくれることが分かるから、自分は満足だ。まさに私は弱い時にこそ強い」(10節)というのです。
主イエス・キリストは弱さを「宿」とされました。神の御子は、弱く全く無力な赤ん坊の姿でこの世においでになり、ヨセフとマリアという無力で小さな夫婦のもとに生まれ、十字架の死という弱くて無力なものの中にその身を投じられました。主イエスは、私たちの弱さをご自身の住まいとなさり、それを舞台として働かれるのです。
わたしたちにも自分の弱さの現実を突きつけられる時があります。それは本当につらく、苦しい時です。しかし、実はその時にこそ見えるものがあります。その時にこそ神の力を知り得るのです。自分の力の限界を知ったところでこそ、はじめて神の力にあずかることができるのです。それが弱さの中の「力」、神さまが「私の力は弱さの中でこそ十分に発揮される」、そう仰った力です。