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2021年06月27日更新
2021年7月4日 主日礼拝
前 奏
招 詞 詩編72:18~19
讃 詠 546(夕拝41)
主 の 祈
信仰告白
聖 書 コリントの信徒への手紙二 11章16~30節 (新約p338)
牧会祈祷
讃 美 歌 7
説 教 「わたしたちの誇り」
祈 祷 内田 知 牧師
讃 美 歌 358
献 金
頌 栄 541
祝 祷
説教「わたしたちの誇り」
コリント教会をかき回した偽使徒たちは「律法を守り、ユダヤ人のようになる」ことを求めました。しかしパウロは、「それでは主イエスの十字架を無にしてしまう。人はキリストの十字架によってこそ救われるのだ」と、この福音を守るために偽使徒たちと対決をします。
そしてまず、「わたしは愚かになる」(21節)と言って、彼らと同じ土俵に立って戦います。彼らが誇りとしているものを、「それならばわたしも誇れる。少しも負けてはいない」と披見するのです。パウロはその「出自や帰属」(22節)においても、自分の功績や行い、特に「数々の労苦」(23~27節)においてはさらに、また「教会を愛する思い」(28節)においても、全く引けをとらないどころか、偽使徒たちよりもそれをはるかに誇ることが出来たのです。
パウロは同じ土俵に立つことが愚かなことだと分かりつつも、「気が変になったようになって」(23節)まで語ります。それは、何としてもキリストの正しい福音に立ち返って欲しいからです。「あなたがたの力や持ち物、生まれ、あなたがたの正しさや行いで救われるのではない。ただ神の愛と憐れみで、キリストの十字架で救われるのだ。この救いから離れてはならない!」との思いが、パウロにここまで語らせているのです。
私たちは十字架の主イエスとその愛が、本当にわが喜び・誇りになってるでしょうか。それとも「キリストだけじゃ不十分だ」と、どこかでそう思っているような生活がないでしょうか。...パウロがここで一生懸命対決した偽使徒たちは私たちの心の中にもひそんでいます。キリスト以外のものを拠り所とし、誇りとし、そこに喜びや救いがあるように思ってしまう私たちです。しかしそこに本当の幸せは、光はあるでしょうか。
「夕暮れになっても光がある/闇になっても/盲目になっても/孤児になっても/不治の病になっても/危篤になっても/極刑になっても/臨終になっても光がある」。 (「光」 河野 進)
夕暮れになっても、闇になっても、不治の病になっても、危篤になっても、私たちを照らす光があります。「あなたはわたしが贖った。あなたはかけがえのない我が子だ」と呼んで下さる主とその愛にこそ朽ちない救いと喜びがあります。わたしたちが誇るべきはこの神の愛と救いです。