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2021年08月29日更新
2021年9月5日 主日礼拝 ~総員礼拝~
前 奏
招 詞 詩編100:1~3
讃 美 歌 15(夕拝51)
主 の 祈
信仰告白
聖 書 コリントの信徒への手紙二 13章1~10節 (新約p341)
牧会祈祷
説 教 「あなたが造り上げられるため」
祈 祷 内田 知 牧師
讃 美 歌 86
献 金
頌 栄 543
祝 祷
後 奏
説教「あなたがたが造り上げられるため」
「今度そちらに行ったら、容赦しません」(2節)。これが本当にキリストの使徒の言葉かと驚いてしまいます。しかし1節も冷静に見えて実は厳しい言葉です。「全てのことは、二人ないし三人の証人の口によって確定されるべき」、これは主イエスがマタイ福音書18章15節以下で語っていることで、最後に主イエスは「どうしても聞き入れない場合は厳正に対処せよ」というのです。またこれはそもそも申命記の17章にある、厳しい刑罰を行うときの戒めなのです。
私たちは誤解しているかも知れません。教会は、キリスト者は、悪いことをしてもどこまでもゆるすべきではないか、と。しかし愛することやゆるすことというのは、放置したり、見て見ぬふりをすることではないのです。正すべきはちゃんと正されなければならないのです。厳しいこと、罰すること、叱ることは、悪でも罪でもないのです。
聖書にも「神の裁き」という厳然たる事実があります。イスラエルはその罪ゆえに裁かれ、神の御手によって滅ぼされました。しかし裁いてお終いではなく、それを通じて完全な救いへと導こうとなさったのです。裁くことで、一度、今の生き方にしっかりとはっきりと断絶を与え、正しいところへ導く。それが神の裁きの眼目です。「私は、愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする」(黙示録3:19)。神の厳しさの背後には愛と真実があるのです。
パウロはここで厳しい態度をとります。しかし7節以下では、自分たちがどうなってもあなたがたの身が立つようにと祈っています。厳しさの背後には愛と祈りが確かにあったのです。
私たちも厳しさを欠いてはなりません。断固とした態度も必要です。しかし「怒ることは自己中心、叱ることは相手中心」といわれます。厳しさや批判には、愛がなければならないのです。
一方で、これは慰めでもあります。神は時に私たちに厳しいことをなさるのです。しかし私たちは、その背後には神の愛があるということをも信じることが出来るからです。