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2009年6月号「中風の人をいやし、罪をゆるす」
幾日かたって、イエスがまたカペナウムにお帰りになったとき、家におられるといううわさが立ったので、多くの人々が集まってきて、もはや戸口のあたりまでも、すきまが無いほどになった。そして、イエスは御言を彼らに語っておられた。すると、人々がひとりの中風の者を四人の人に運ばせて、イエスのところに連れてきた。ところが、群衆のために近寄ることができないので、イエスのおられるあたりの屋根をはぎ、穴をあけて、中風の者を寝かせたまま、床をつりおろした。イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。ところが、そこに幾人かの律法学者がすわっていて、心の中で論じた、「この人は、なぜあんなことを言うのか。それは神をけがすことだ。神ひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」。イエスは、彼らが内心このように論じているのを、自分の心ですぐ見ぬいて、「なぜ、あなたがたは心の中でそんなことを論じているのか。中風の者に、あなたの罪はゆるされた、と言うのと、起きよ、床を取りあげて歩け、と言うのと、どちらがたやすいか。しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために」と彼らに言い、中風の者にむかって、「あなたに命じる。起きよ、床を取りあげて家に帰れ」と言われた。すると彼は起きあがり、すぐに床を取りあげて、みんなの前を出て行ったので、一同は大いに驚き、神をあがめて、「こんな事は、まだ一度も見たことがない」と言った。(マルコによる福音書2:1-12)
イエスさまが旅から戻られてカペナウムという町にお帰りになった時、たくさんの人々がイエスさまのお話を聞きに家に集まってきました。
そこに、四人の人が、中風の病で立つことや動くことのできない友人を、担架に乗せて運んできました。イエスさまのうわさを聞いて、病気をいやしてもらおうと思ったからです。しかし、家の周りはすごい人で、家の中に入ってイエスさまにお会いすることができそうにありません。
当時の家の屋根は平らで、家の外には、屋根にのぼる階段がありました。時には、そこは休息の場所になりました。屋根はほとんど土でできており、屋根の上に草が生えていることもありました。
屋根の上にのぼって天井をはずすことは、そんなにむずかしいことではありませんでした。四人の人は、イエスさまにお会いする方法を考えました。屋根をはがして、穴をあけ、イエスさまのおられる部屋に、病の人を寝かせた床のまま、つりおろしました。イエスさまにお会いしたい、会って、中風の友人の病気を治してもらいたい、という四人の信仰を、イエスさまはたいへん喜ばれました。そして、イエスさまは、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された。」と、おっしゃいました。
当時のユダヤの人々は、苦しんだり、病気になるのは、罪を犯したからだと信じていました。しかし、イエスさまは、この中風の人が罪人であり、罪がゆるされるまで病気が治らないということはないということを、はっきりお示しになりました。イエスさまは、中風の人に「起きよ、床を取りあげて家に帰れ。」と、おっしゃいました。すると、今まで動くことのできなかった中風の人が、すぐに起きあがって、みんなの前を歩いて出て行ったのです。
自分が一番だ、自分が正しい、罪なんかないと言ってイエスさまを受け入れようとしない心のかたくなな聖書に出てくる律法学者たちは、イエスさまによって起こっている出来事の意味がわかりません。
イエスさまが中風の人に言われたことは、今の私たちにも言ってくださっています。イエスさまを信じる信仰があれば、神さまのことを忘れ、罪の中に生きている私たちさえも、罪ゆるされた者になることをはっきり告げられています。
人々に対する神さまの態度を、イエスさまを通してはっきりと示されているのです。そして、それは、イエスさまが十字架におかかりになることによって、もっと明らかにされるのです。
(お話 前田 攝子)