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2011年5月号「神は、何でもできる」
すると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。イエスは言われた、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。彼は言った、「どのいましめですか」。イエスは言われた、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」。この青年はイエスに言った、「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」。イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。それからイエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。弟子たちはこれを聞いて非常に驚いて言った、「では、だれが救われることができるのだろう」。イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない」。(マタイによる福音書19:16-26)
ある金持ちの青年がイエスさまに尋ねました。「先生、永遠の命を得るためにはどんなよいことをすればよいでしょう。」
しかし、イエスさまは、この青年の心の中に深い闇があることを感じられました。そこで、問い返されました。「なぜ、よいことについて、わたしに尋ねるのか。よいかたはおひとりである。」と。
聖書の「よい」とは「恵み深い」(詩篇106:1)という意味です。永遠の命を授けることのできるお方こそが恵み深い、ただ一人の善い方であり、その方に目を向けることが大事であると、イエスさまはこの青年に言っているのです。
けれど、この青年は、そのことが解らず、そのお方から目を背け、自分の持っている財産に目を向けています。主の前から、悲しみながら立ち去ります。青年は自分の偽り、うその心に少しも気づかず、救われた喜びがなかったのでしょう。
この青年は、父なる神さまに心が向いていなかったのかもしれません。全財産を捨てて「わたしに従ってきなさい。」と言うイエスさまについていくことができませんでした。
では、天国への門はそんなに狭く、針の穴のように小さいその門の前では何もできないのでしょうか。途方に暮れてただ立ち尽くすしかないのでしょうか。そのとおりなのです。わたしたち、人間のちからではどうすることもできないのです。
そんな無力なわたしたちの前に、イエスさまは立たれているのです。そして「それは人間にできない。しかし、神にはなんでもできないことはない。」と言われるのです。神さまは、わたしたちをかけがえのない一人として、この世に生まれさせてくださいました。神さまにできないことは一つも無いのです。この神さまの力強いみ言葉に従い、神さまを見上げ、教会学校に励みましょう。
(お話 中野 康彦)