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2011年7月号「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」
さて、主にある囚人であるわたしは、あなたがたに勧める。あなたがたが召されたその召しにふさわしく歩き、できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互に忍びあい、平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。からだは一つ、御霊も一つである。あなたがたが召されたのは、一つの望みを目ざして召されたのと同様である。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである。 (エペソ人への手紙4:1-6)
「堺教会に行ってきます。」朝、皆さんはそう言ってお家を出てきましたね。皆さんは、教会というと、この建物のことを思い浮かべますよね。でも、正確に言うと、少し違うのです。教会は、建物のことではなく、イエスさまを信じている人たちの集まりのことをいいます。そして、教会の建物は、教会堂といいます。
3月に東北地方で大きな地震がありました。その地震で、ある教会の建物(教会堂)は崩れてしまい、無くなってしまいました。しかし、だからといって、その教会が無くなってしまったではありません。イエスさまを信じている人たちが集まって、無くなった教会堂の隣の建物で、今日も礼拝をささげています。建物が無くなっても、教会は無くなりません。
教会には、イエスさまを信じる人たちが集まり、礼拝をします。でも、礼拝は日曜日だけ。他の日はそれぞれの家にいて、学校に行ったり、お仕事に行ったり、一緒にいない時間のほうがずいぶん多いのです。
では、教会に集まっていない時、私たちはバラバラなのでしょうか。そうではありません。一緒にいない時でも、イエスさまを信じる人たちは、いつも一つであるとされています。イエス様を信じる人たちは「神さまの家族」としていつも一つなのです。
世界中にたくさんの教会があります。ことばも、国も違うさまざまな人たち、病気で教会に来られない人、教会の建物が無くなって普通のお家で礼拝している人、みんながイエスさまを信じる気持ちで一つの家族です。私も、隣のお友だちも、東北の教会の人も、そして世界中の教会の人も、イエスさまにしっかり手を繋がれて一つの大きな輪の中にいる、これが「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」なのです。
(お話 油谷 順子)
※ 都合により、6月号は休みました。